助動詞の乱舞

哲学と文学の読書

河合隼雄 「ユング心理学と仏教」(1995年)

 僕が初めて心理学のことを知ろうと思ったとき、読んだのは河合隼雄の「ユング心理学入門」だった。確か15歳か16歳のときだったと思う。

 わかったような、わからなかったような感じで読み終えたことは覚えている。

 人間には無意識があると言われればそれはそうだろうと思うし、それは個人だけにあるのでなくて全人類にも普遍的な集合的無意識というものがあるだろう、という考え方も、一体そんなものがどうやって(つまり科学的にどんな物質を媒介にして)成立しているのか皆目見当がつかない、ということを留保すればまあ発想としてはわかる。

 だけど、人間の心にはアニマやアニムスがあるなんてなってくるとてんで駄目で、そんなのは勝手な解釈の枠組みを作ってそこに押し込んで行ったからそういうことになっただけじゃないのか、だいたい百年近く前のユングなんて怪しい学者の言ったことを、そんなに重要視して今更用いる必要はあるのか……そんなことを思いながらも、なるほど確かにユングが言うような枠組みを使えば、人間の『無意識』の働きはそうとう的確に説明できるといえばできるだろう、というようなことも考えて、「ユング心理学入門」を読んだのが昔の僕だった。

 それから心理学(というか精神分析)は医学・科学としては失格の烙印を押されていることを知り、安心して無視してきたのだが、最近ちょっと自分が世界を見る目が殺伐としすぎていることを意識するようになった。実証主義を押し通していくと、面白い考え方は出てこなくなる。だいたい、実証できない「効能」に僕たちはずいぶん頼って生きているのに、それを理性の側から「実証できないものは存在しない」と切り捨てるのは乱暴である(実証の限界というものを感じ始めたのかもしれない)。

 それで、そろそろ思想としての精神分析をちゃんと知っておこう、と思って、河合隼雄を手に取り始めた。

 河合隼雄は日本のユング派の祖らしい。2007年に亡くなった。僕個人は「ユング心理学入門」の他にも、村上春樹との対談なんかは読んだことがあり、そういう人がいることは知っていた。よく言えば丸っこくて柔軟な、悪くいうと適当すぎる考え方を持っている心理学者だという印象を持っていたのだが、それで「ユング心理学と仏教」を手にとって見るとこれがけっこう良かった。

 「ユング心理学と仏教」は河合隼雄が1995年にアメリカに行って、現地でやったレクチャーの原稿を出版したものである。アメリカにはユング派の心理学者の会合があって、そこに招待されたらしい。今のアメリカの心理学者がそんなことをやっているのかどうかは知らないが、少なくとも1995年にはやっていたというのだから恐れ入った。とにかく、そういう場でアメリカ人に対し、日本人としてユング心理学について何か語らないといけない、ということになり、河合隼雄は日本で患者と向き合って治療をしているうちに日本人の心性には仏教的なものがあって、それとユング心理学の関係が面白いからそれをやろうということになった、という経緯でこの本のタイトルができたということだ。

 「ユング心理学と仏教」はプロローグ、エピローグを除くと主に4章から構成される。以下に要約しておくけど、半分くらいは記憶に頼って書いているので大雑把な内容を知る以外には参考にならないと思って読んでほしい。

 第一章は「ユングか仏教か」という題で、日本と西洋の自我意識の違いを語る。

 自分の西洋留学の体験などを引き合いに出しながら河合隼雄は、西洋的な自我は元々個々に確立しているのが前提になっており、それから周囲とのコネクションを図る一方で、日本的な自我は周囲との関連性の中でぼんやりと意識されており、それから敢えて個別化の道に歩むという形で意識されているのだ、ということを語る。これはたぶん当たっているのだと思う(どこまで普遍性があるか、どれだけの人間に実際問題として当てはまるかは別として)。もちろん単にそういうことを言いたいのではなく、周囲との関連性の中で意識される日本の自我は集合的無意識に近いところにあるのだから、ユング思想は東洋の(日本の)価値観と通底するところがあるだろう、ということを言いたいのである。その東洋的(日本的)な価値観の象徴として仏教が言われているのであって、別にこの本は仏教思想への深い言及がある訳ではない。おかげで気楽に読めるが。

 第二章は「牧牛図と錬金術」という題になっている。「牧牛図」という東洋の宗教的なテーマを持つ図と、「賢者の薔薇園」という西洋の錬金術の図を比較する。後者はユングが参考にしたもので、ユング心理学にとって重要な絵とされている(らしい)。

 ここは参考になったと思ったところで、「賢者の薔薇園」は要するに人格や精神の変化、生誕と再生のプロセスの各過程を示しているのだが、「牧牛図」はある意味すべてがパラレルに扱われている。どの段階にあっても、目標にたどり着いているといえばいるし、たどり着いていないといえばいないような表現形式になっている。無意識とはそういうもので、無意識を変化させて目的を達成しようとするのではなく、突破口は最初からあるといえばある(ただしないといえばないともいえる)のだから、そのことを重視すべきなのではないか、という問題提起をする。僕はハリウッド式の成長・成功物語ばかりが日本に輸入されて再生産されていることにずっと違和感を覚えていたので、この点ではなにかに気づいたような気がした。

 それから、この章ではアニマ像についても語っている。結論を端的に言えば、西洋的なアニマは「お姫様」で(神曲ベアトリーチェだ)、日本的なアニマは「母親」なのではないかという提案をする。河合隼雄は、仏教も母性原理の思想として解釈している。

 第三章は「私とは何か」というタイトルで、おおむねタイトル通りのことを説明しているのだが、これは第一章と内容的には重複していると思う。第一章は割と河合隼雄自身の経験を語っていたので、そこから得られた思想を語ったのだと思うが。言っていることは割と単純で、西洋的な意識は「自我」から無意識の方に降りていく形で無意識、更には集合的無意識までを発見したが、日本はもともと集合的無意識に近い側にいて(そのことを縁起という仏教思想から説明している)、そこから西洋の近代的自我を輸入したので互いに問題意識が逆になっているんだ、ということである。これも今では割とよく聞くような話の気はするが、何はともあれ結構面白い指摘である。

 第四章は「心理療法における個人的・非個人的関係」という題で、これまでの内容をかなり引きずっている。西洋人的な意識、日本人的な意識を我々は共に持っている。その上で、ユング心理学で患者を治療するという観点で言えば、どっちの方向性もバランスよく持つしかないんじゃないか、みたいなことを河合隼雄は平然と言う。また、治療者は患者の無意識の触媒になる程度の役割しかない、みたいなこともたぶん言っているんだと思う。いまいち僕が正確に表現(理解)できていないけど、この辺は多分河合隼雄節がぶんぶん唸ってる。

 また、人間の根底には通底する悲しみがあるみたいなことも言っているのだが、ショーペンハウエルか釈迦かよって感じだ。そして最終的な結論は「人間は統合はないけど協調してうまく動いているスーパーシステムなのだから、そういう風に把握するしかないじゃないか」といったところに落ちてしまい、統合された学問(科学)としての心理学を否定してしまう。心理学の営みは必要だが、そこに統合を求める必要はないと見ているらしい。

 ふわふわしていて捉えようがないといえば、そんな感じである。思想としては、こんなヨタ話、と片付けられてしまうギリギリのところに立っているのが心理学、精神分析というものだろう(それが変に大衆受けして流行ったりすることもあるが、それについては触れない)。

 だけども、河合隼雄の言い方にはそれなりに説得力を感じるのも事実で、それは河合隼雄が患者と向き合い続けた実績から来ているのか。それとも、単に河合隼雄に言いくるめられてるだけなのか。

 心理学なんて虚構と言えば虚構だし、それにしたってけっこう面白いのは事実である。こういう学問が消えていくとしたら、それは寂しいことだと思う。