助動詞の乱舞

哲学と文学の読書

深沢七郎 「楢山節考」(1956年)

 世の中には、これは高貴なテーマを扱った作品なんだ、ということを前面に押し出して書かれた小説がある。

 それが悪いと言いたい訳ではないのである。そういう小説で素晴らしいものは幾らでもあるから、それはそれで良い。だが、楢山節考はそんなものとは一見して無縁そうな、日本の小さな寒村を舞台に選んだ。

 老人を楢山に捨てるのがその村のしきたりである。主人公の母の老婆、おりんにもそのときが近づいている。母は楢山に行くことは良いことだと信じている。だから、はやくその日が来てほしいと思っている。

 主人公は、できれば母を山に送りたくはない。相応に苦しむのだが、しきたりに反する訳にも行かないし、母が楢山に行くことを望んでいるのを見ると死ぬなということもできない。

 主人公は自分の子にも苛立たしさを感じる。子供は子供で、自分には当然生きていく「権利*1」があるし、そのために早く祖母には楢山まいりに行ってほしいと思っている。姥捨て、楢山まいりのしきたりは、貧しい農村の食糧不足のために生まれた。口減らしが必要なら、本当は子供がいなければ、母は山に行かなくて済むのだと思ったりもする。もちろんそんなことを思っても、どうしようもない。

 だいたいこんな状況で進んでいく物語である。断っておくが、こんなあらすじは、楢山節考という作品の何も伝えていない。そもそもかなり端折ってしまったし、仮にあらすじを忠実に書いたところで深沢の独特の文体、筆運びは伝えられそうにない。やるとしたら引用なのだが、こんなページで深沢の文章を細切れに引用して読ませようとするよりは、文庫本を読んで頂いた方が良いと思った。

 一体この作品には何が描かれているのか。村落を維持していくためには親を殺し続けるしかないという、罪業かもしれない。我欲に駆られた人間の醜さと、その対局の利他性を対象的に描いたのかもしれない。あるいは、一切皆苦の現世で、人に宿る仏の姿を描いたのかもしれない(断っておくが仏教的な描写がある訳ではない)。

 この作品には危うさがある。現代に直結させて論じるのも、現代にとっては危険だし、楢山節考にとっては的外れも良いところだろう。楢山節考は姥捨てという、少子高齢化が進む現代日本にとって意識せざるを得ないテーマを扱った作品だ、というような論評をする人もいるのだが、そうは思わない。日本の高齢者は長生きして余生をエンジョイしたいとばかり思っているし、その子供たちがどこまで自身の親を愛しているかも正直疑わしい。だいたい、楢山節考の主題を絶賛した人たちには、今は相当高齢者になっている人も大勢いるはずなのに、彼らが自ら「楢山まいり」に行きたいと言っているのはほとんど聞いたことがない。

 楢山節考を読むと、我々は自らが楢山節考の世界とは「ずれて」いることを実感する。だけど、その「ずれた」向こう側の人びとの「美しい(痛ましい)」姿のことはわかる。それをどう読むかは、僕たちの課題である。

 これくらいにしておこう。確実に言えるのは、これは高貴なテーマを扱った小説なのだということだ。宗教的とすら言っても構わない。深沢は高尚そうな思想なんかまったく振り回したことがないし、着飾った美文体なんて一度も使ったことのない作家だけど、楢山節考は(そして深沢の他の小説は)ぐさぐさと心に刺さる。

 だから、できるだけ先入観を持たず、読んでみるのが良い。僕から言えることはそれくらいしかない。

*1:敢えて現代の語で権利と書いたが、この語はあまり作品の意図を汲めていないと思う。若い自分は年寄りを押しのけてでも生きる権利がある、年寄りはそのために死んで良いし早く死ね、というのが実際に描かれている「権利」である