助動詞の乱舞

哲学と文学の読書

アルベール・カミュ 「シーシュポスの神話」(1942年)

 僕が十代後半の頃、読書仲間とでもいうべき友達がいた。

 彼は泉鏡花や、米文学や、ラッセルや、その他雑多な本を色々読んでいた。その頃僕が夢中だったのは、ニーチェドストエフスキーキルケゴール、あるいは三島由紀夫だったり芥川龍之介だったりした訳で、今思えば彼とは相応の立場の相違があったのだが、そういうことはともかくとして僕と彼は友達として付き合っていた(けっきょく趣味の違いなんてものはあまり重要という訳でもないのだ)。

 その彼に異邦人とシーシュポスの神話を勧めたことが、記憶に残っている。彼は異邦人は読んで、素晴らしいと言った。シーシュポスの神話は、途中まで読んだけどわからないと言っていた。

 カミュの作品は明快だという人と、晦渋に思う人がいる。僕は前者なので(だからといって完全に理解しているなどと言うつもりはないが)、彼みたいにカミュをそんなに難しく考える人の気持ちはわからない。わからないなりに、かつての彼にカミュのことを、ちゃんとというほどでもないがわかりやすく書いてみようと思ったのがこの記事である。

 カミュの創作は大雑把に初期(異邦人の頃)、中期(反抗的人間まで)、後期(反抗的人間から死まで)に分けて考えることができる。初期は新人若手作家として高く評価され、瑞々しさに溢れていた時期。中期はよく言えば安定した、悪く言えば些か停滞気味に作品を書いていた時期。後期はアルジェリアの独立や社会主義に対してある意味異端的な態度を取ったことで思想的に孤立し、あがきながらも創作を続けた時期と言って、それほど異論はないと思う。シーシュポスの神話は初期の作品だ。だから、今回は初期のカミュのことだけ論じようと思う。*1

 シーシュポスの神話は若書きである。勝手なことを言い過ぎだろと思う部分はたくさんあるし、カミュの野望がもろに出ている。それが悪いと言っているのではない。素敵な哲学はだいたい野心的なものだ。それで良い。

 カミュを読むことは、カミュの野望や野心と付き合いながら読むということである。ちょっとつまらない言い方になるが、カミュは「世の中でもてはやされている哲学には欠陥がある、たださなきゃならん」ということをシーシュポスの神話で語ったと思っても別に間違いではない。カミュサルトルに並ぶ実存主義者の一人として数えられることが多いが、カミュ自身はそう呼ばれることを嫌っていたし、実存主義には否定的だった。

 カミュがシーシュポスの神話で何を言ったのか。タネを明かせば簡単だ。

 まず実存主義者をこてんぱんにやっつけた。フッサールヤスパースキルケゴールといった面々である。カミュ実存主義を「ありもしない希望、あるいは不確実な希望にたどり着こうとする思想」とみなした。

 ニーチェの言葉を借りて言えば、神は死んだのである。だから、もはや希望はない。希望を抱くには価値や報いを与えるもの(つまり神)が必要だが、そんな神はいなくなってしまった。

 それでも人間は希望を抱きたがる。カミュに言わせれば、それは間違いである。希望というと普通はポジティブな言葉のような気がするが、カミュは希望を否定する。それはありもしないか、せいぜい不確実なものである。そんなものにすがっちゃダメなのだ。

 これがカミュの世界観の基本である。サルトルと対立した反抗的人間、未完で終わった最初の人間まで一貫し続けたスタンスだ。

 だいたい、僕たちは「努力すれば報われる」と考えたがるし、「人生には意味がある」「死んだ後は天国に行ける」「歴史には目的がある」と思った方が愉快だ。だが、それは嘘なのである。努力しても報われるとは限らない。人生に意味があるか、天国があるか、歴史に目的があるかなんていうのはよくわからないことである。これが人間の投げ込まれている世界というものだ。だが、それでも人は生きることに意味を求め、希望を抱きたがる。カミュはこういう状態のことを不条理と呼ぶことにした。この不条理がカミュの哲学のスタート地点である。

 不条理から発する道を、カミュは三つ示した。

 まず、自殺。これは論外だ。「人生には意味なんてないんだ」と絶望して自殺するというのは、それはそれでけっこうなことだが、そんな道を選びたくはないし、実は選ぶ必然性もないとカミュは語る。すべての行為は等しく無意味なのだから、自殺しようがしまいが何かの解決になる訳ではない。だいたい、人生に意味がないことを知りながら、それでものうのうと生きている奴だってけっこういるじゃないか(これはカミュの結論への伏線でもある)。

 次に、宗教などを盲信すること。カミュはこれも論外とみなす。理性を捨てる行為だとみなし、哲学的自殺と呼んだりした。

 哲学的自殺にはすぐ思いつく大きなデメリットが二つある(もっとたくさんあるかもしれないが)。

 まず、理性を称える哲学的が実は哲学的自殺をしていた、という場合、まったくサマにならない。カミュ実存主義を否定したのも、この理由からだ。実存主義は哲学的自殺を目指す思想だとカミュは考えた。たとえばヤスパースは、「超越者*2と出会おうとしても挫折する」と考える。ここまでは別に良い。だが、ヤスパースは「その挫折したことによって超越者の存在を実感できるだろう」みたいなことを言う。こういうのはダメだ。できの悪い学生のレポートみたいだ。でも、こういうダメさが当時の哲学ではけっこう幅を利かせていた。カミュはそういうことをぶん殴った。

 もう一つのデメリットは、理性を捨てると他人とわかりあうことは不可能になる、ということだ。これは幾らでも実例がある。キリスト教イスラム教の対立はいい例だ。理性的な人間同士は原理的には互いを理解できる*3。だが、何かを盲信している人間はいわば「狂人」であり、互いにわかりあうことは不可能になる。こうなると、あとは相手を暴力で屈服させ、自由を奪って支配するしるしかない。それはナチスがやったこと*4、あるいはカミュの父親を奪った第一次大戦で起きたことであり、カミュはそういう暴力には断固として反対した。

 こうなると、哲学的自殺の道を選ぶ訳にはいかない。最後に残る道は、不条理を受け入れて生きるということである。なんだ、そんなことかよと思うかもしれないが、カミュはこれが唯一の道だとみなした。

 不条理を受け入れるということは、希望を持たずに生きるということである。これを文字通り受け取るとどういうことなのか、考えてみてほしい。僕たちはたいてい、将来に希望を抱いて生きている。「受験勉強すれば大学に合格できるだろう」とか「頑張って仕事をすれば職場で出世できるだろう」とか「このブログもコツコツ記事を書き続ければ人気が出るだろう」とか、そんな『希望』だ。『希望』には二つ問題がある。まず、そういった希望は(実現する蓋然性は高いのかもしれないが)確実に実現する訳ではない。そして、仮に実現したとしても、究極的にはそれが実現したことに何か意味とか価値、素晴らしさがある訳ではない。どうあがいても生きることを肯定する方法はない。生きること、あるいは大学に入るとか、企業で出世するとか、ブログに人気が出るとか、自己実現を達成すること、そういうことに(哲学的な)価値があると思い込めば哲学的自殺になる。

 ちょっと恐ろしいポジションである。普通、人はそんな風には生きられないのではないかと思ってしまう。だけど、カミュはここで踏ん張って、「いや、そのことを肯定できれば大丈夫なのではないか」と言ってのけた。

 シーシュポスというギリシア神話の英雄がいる。シーシュポスは大変賢く、神々を騙して互角に渡り合ったのだが(地獄から生き返ったりした)、さすがに神もキレて彼に刑罰を与える。これが有名なシーシュポスの岩で、シーシュポスは山の頂上まで岩を運び上げるという刑罰を永遠に受け続けることになった。岩は頂上に着くと、山の麓までまた転がり落ちていく。要するに無意味な苦行をずっと続けるということだ。

 このシーシュポスに、カミュは新しい解釈を与えた。原文から引用しよう。

この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。

 シーシュポスにとって、彼の世界は岩を持ち上げることだけである。それは貧しく、苦しく、無意味な世界だが、このシーシュポスは僕たち人間の戯画でもある。けっきょくのところすべての人間も、貧しく、苦しく、無意味な人生を生きている。岩を持ち上げ続けるシーシュポスとは程度が違うだけで、本質的には同じことをしているのだ。

 それでも、シーシュポスは彼の世界の中で心を満たせるじゃないか、とカミュは言った。岩だって美しいだろう。岩を持ち上げ続けることに情熱を抱ければ、それで良いだろう。それがカミュの結論である。

 オリンピック選手を想像すれば良い。頑張れば金メダルを取れる、結果が出せる、と確信して練習している選手は恐らくいない。彼らがそれでもくじけないのは、練習して競技が上手くなること、観客を楽しませられることがそれだけで嬉しいからだ。それで十分報いになる。金メダルを取るかどうかは副次的な問題、究極的にはどうでも良いことでしかない。

 だから、受験勉強する理由は勉強して成績が上がり、大学を目指すのが楽しいから、それで十分。仕事を頑張るのも、単に仕事が楽しいから、で良い。ブログ記事だって書きたいから書いてるのである。

 カミュがシーシュポスの神話で語ったのは、だいたいこんなことだ。こう書いてしまうと、なんだか「生きるのを楽しめ」みたいな人生論みたいに思えてくるが*5カミュはそれに哲学的な裏付けを加え、また戦時下のフランス人にナチスに抵抗する勇気を与えもした。カミュは「不条理」や「哲学的自殺」といった概念が出現するような、哲学的にギリギリの場所(カミュの言葉を借りて言えば『砂漠』)で考え、議論をした。だから、巷に良くある安易な人生論といっしょにする気にはならない。

 カミュの思想が現代でも意義を持っている等と言うつもりはない。これだけポストモダン全盛の現代で、西洋的な理性を絶対の拠り所として信じるカミュの思想がどこまで通用するのかも怪しいかもしれない。だけど、カミュ自体はもっと読まれても良い。カミュは思想家として、人間として誠実であり続けようとした、魅力ある作家だ。そしてシーシュポスの神話はその魅力を存分に味あわせてくれる。

*1:もちろん中期のカミュを否定する訳ではない(実際、名作小説ペストや素晴らしい戯曲を幾つも産んだ)。また、後期のカミュの痛ましさ、それでも前進し続けた姿勢は胸を締め付けられるような思いを抱かせる。

*2:神だと思って差し支えない

*3:実際にやろうとするとけっこう大変だろうということは置いておくとして

*4:カミュレジスタンスとしてナチスと戦った

*5:というか実際そういう側面も相応にあって、それ(とても上質な人生論であること)がカミュの哲学の大きな魅力なのだが